虐待されたこども時代。今だから思う「虐待を受けたからこそ得られたもの」。



シンママナースの マリアンナ です。

 

最近になって、ニュースで毎日のように子どもの虐待ニュースが流れるようになり、「子どもの虐待」に関する周知がされるようになりました。まるで虐待が年々増加しているかのように報道されています。

 

「子どもの虐待が増加している」。

 

よく報道される虐待件数の増加に関して、わたしは誤解があると思っています。それは、これまで取ってきた虐待件数のデータそのものが、正しいデータではないと思うからです。今の20代、30代が子どもだった時代にも、もっと子どもの虐待は潜在的に昔からあったんだけども、それが浮き彫りになっていない方が、圧倒的に多かっただけだと予測しています。通報された件数だけが、実際虐待が起こった正しい件数とは限りませんから。通報に至っていない潜在的虐待は、もっとあるはずだと思うんです。

 

虐待を受けていた日々

わたしが小学校低学年のとき、両親は離婚しました。父のギャンブル癖が原因。母は経済的な負担や、母子家庭で子育てする負担に耐えられず、徐々に精神薬に依存するように。精神薬では飽き足らず、母は次第に合法ドラックのような薬にも手を出すようになりました。この地点でわたしは小学生。薬で頭がおかしくなっていく母と、母子ふたりの生活。母は薬に飲まれるように、わたしに対する「子育て」を放棄するようになりました。

 

母は薬におぼれつつ、毎日パチンコに通い、帰宅するのは0時頃。それまでごはんは食べさせてもらえません。家の鍵を忘れたら、真冬でも0時まで家に入れませんでした。小学生の女の子が、家で毎日一人で過ごす。いや、ほんと怖いですよ。ちょうど阪神大震災もあったりしたので。誰も守ってくれる大人がいない環境だったから。母は精神薬の影響か、ヒステリーを起こすと暴力や暴言、自殺行為なども目立つようになりました。今思えば母は、かなり重症な精神疾患になっていたんだと思います。そんな精神状態で子育てなんてできるはずもなく。今思えば「虐待を受ける子ども」だったんですね。普通に考えれば、ネグレクトだし、暴言や暴力も頻繁でした。でも今みたいに虐待っていうのが周知されていた時代でもないので、通報とかはなかったと思います。今の時代ならすぐ通報されてたと思うけどね。同じような家庭環境の子どもは結構いたので、虐待って潜在的件数を考えると、絶対昔からもっとあったと思うんですよね。

 

小学校時代のわたしは、なぜ母がそんな異常行動ばかりとるのか、なぜ母はわたしを邪険に扱うのか、理解に苦しむばかりでした。子どもだから何が悪くてそんな状況になっているのか、理解できなかったんです。

 

お父さんが出て行ったからだろうか。お父さんが帰ってきてくれたら、元のお母さんに戻るんだろうか?わたしがもっと理想的な子どもになれば、母は元の母に戻ってくれるんだろうか?わたしがもっと母を支えないから悪いんだろうか?答えの出ない疑問がグルグルとずっとめぐっている状態。

 

虐待を受けた子どもだった自分の過去を振り返って気づいたんですけど、虐待を受けている子どもって、自分が虐待を受けているなんて思っていないんですよ。自分が生まれついた「親」のもとでしか生きたことがないから、自分の親の行動が正常か異常かなんて判断できない。これって、虐待件数が減らない盲点だなって思います。

 

虐待される子どもは、虐待されていることに気づかない

子どもは自分が虐待されていること自体に気づかないうえ、親に愛されたいがゆえ、親に従順だったりします。家のなかで起こっていることを口外するなよ、って言われたら、素直に従いますよ。小さい間はとくに、怖いから口外しないんじゃなくて、親に愛されたいとか、褒められたいっていう原理で口外しないことのほうが多いと思います。

 

自分が虐待されてるなんて思ってないし、そもそも虐待ってなに?って感じだから、自分がまさかそういう状況の被害者だなんて思う頭がない。わたしも子どものとき、虐待っていう言葉を知りませんでした。最近はテレビでもよく聞く言葉になったけど、1990年代はそこまで子ども誰もが知ってるワードでもなかったような。そう考えると虐待って、周囲の大人がしっかり子どもの変化を観察して、気づいてあげることでしか、防げない社会問題なんだと思います。

 

 



今でも突然蘇る、むなしさと怒り。過去はすぎても記憶は消えない。

わたしはそういった生い立ちのなかでも、就職したりして普通に社会で生きることが出来ています。一見、普通の社会人であり、母親でしょうか。わたしの母も薬や賭博を断ち切り、まじめに生活してくれています。子育ても協力してくれます。だけどふと自分が受けた虐待を思い出すことがあります。どこにも置きようのない怒りや、悲しみで打ちひしがれる。虐待を受けた記憶がよみがえってくることがあるんです。今さらこの年になって反抗期に入るわけにも、年をとって弱くなった親に文句を言うわけにもいかない。

 

でもね、やっぱり思います。

記憶は消せないですね。

母はとても大切だし、今はまじめに生きている母を責めることはしないけど、それでも急に思い出すんです。別に思い出したいわけじゃないんだけど。

 

幼少期親にかわいがられていたことを、ふとなにかのきっかけで思い出すことってないですか?あー、お父さんのひざの上にすわって一緒にあそんだな、とか。こけてすりむいて泣き付いたらお母さんよく抱っこしてくれたな、とか。あー、親ってありがたいなって思いかえしたりするのが普通の人なのかな、っておもうんだけど、

 

わたしは、ふとなにかのきっかけで、理不尽に受けた虐待を思い出してしまうんですよね。わたしだけなんだろうか。誰かを責めても何も良いものは生まれないから、誰にも怒らない。わかってるけど、思い出すとつらい。なんであんな仕打ち受けなきゃいけなかったのかな、なんてメンタリティーになったりする。きっとこの記憶は、相当な認知症にでもならない限り、墓場まで持っていくんだろうなぁと思っています。

 



子どもを産んでみてわかる「子育ての限界」。親を責めることは正解ではない。

自分の幼少期を思い出すと、親に対する不満もあるけど、自分が親になって「子育ての大変さ」は確かに身にしみました。いや、虐待なんてもちろんしないけど、虐待って条件が揃えばだれでも加害者になりうる問題だなって思ったんですよ。

 

虐待が起こる家庭っていうのは、ある程度特徴があるそうです。なんかの論文で読みました。(ソースないですすいません)

貧困、頼れるひとがいない、片親、親の精神年齢の低さ、親の性格(完璧主義者とか)、低年齢出産とか。なんかいろいろ条件あったけど、特に貧困世帯に虐待が多いみたいなことが書いてました。収入って大切だな、って改めてしみじみ。子育てに不利な条件がいろいろ重なって、子育てに限界を感じて、精神的にパンクするんだと思います。そこから、弱い立場だけど手のかかる子どもに矛先がいくんじゃないでしょうか。

 

子育てをしたことがある人なら、どれだけ子どもを育てることが大変かわかると思います。お金や協力者がいないともちろん無理だし、ある程度心に余裕を持てる精神力も必要。こういう子育てに必要な条件がある程度整わないと、やはり子どもにイライラしてしまったり、手をあげるつもりじゃなかったのに手をあげてしまうことなんて、よくあることだと思う。虐待はこういう子育てのストレスの延長線上にある問題なんでしょう。

 

誰でも条件が揃うと、幼児虐待が成り立つと思います。それが大きいか小さいかの話だけで。

 

 

虐待を受けた子どもって、記憶がある限り、ずっとその辛かった経験は背負って生きていくことになります。その後の人生がすごく幸せなものになったとしても、きっとふとした瞬間にその時期のことを思い出して、どうしようもないナーバスな状況になることってあるんですよ。

 

でも、「あいつのせいだ!」ってなるような、親を責めるような感情を持つことはしないほうがいい。自分もあのときを思い出すと、そういう風な考えに傾くことがあるけど、過ぎ去ったことで誰かを責めても、本当に何も良いものは生まれないのが結果ですから。

 

虐待だけに限らず、自分は悪くないのに、ひどい仕打ちを受けることはあります。人生1回2回位は。でも、だれかを恨んでるままでは、自分の成長がストップしてしまいますからね。どれだけ自分が悪くないのに受けた仕打ちでも、思い出してただイライラするのは、自分にとってもマイナス。なにか失敗するたび、「あいつのせいだ」っていう思いがどうしても出てしまう。人生のなかでも大きい辛い経験っていうのは、どうにかして自分で消化できる方法を模索していくことが大切だと思います。

 

 



虐待を受けたからこそ、知ったありがたみと愛情の大切さ

うけた虐待の程度ってひとによって違うから、みんなそうではないと思いますが。わたしは確かに生い立ちに難があるけど、その経験を通して、とても感謝していることがあります。

みんな当たり前に、ごはんが食べれたり、家族と仲良く過ごせたりすることが当たり前に思ってると思うんだけど。わたしはそういった当たり前のことが、非常にありがたく身に染みるんです。夕ご飯を家族で食べれるってすごくないですか?命を脅かされる環境にないって、すごくありがたいことなんですよ。みんなにとっては当たり前でも、わたしは経験したことがなかったので、すごく幸せに思う。そういう家族の当たり前の日常を、こどものときに経験したことがないので、今手に入れた当たり前の生活がすごいありがたすぎる。家族で食べるごはんってこんなおいしいんだ、っていうのは大人になってから知りました。

例えていうなら、すごく汗かいて脱水状態で登山したあと、頂上でぐいっと水を飲んだらいつもの何十倍も水がおいしいですよね。いつもなら感謝しない水にも感謝できる、みたいな感じと似てると思う。息できない状態が何十秒も続いて死ぬかと思った後、空気を思いっきり吸えたら、息できることに感謝するじゃないですか。そんな感じ。当たり前のことをありがたいと思える。これって現状に満足できるわけだから、普通のひとより幸せですよね。

今命を脅かされる状態じゃないし、ごはん食べれてるし、幸せじゃん、みたいな。別に高級車とか、エステとかいけなくても(いやお金あったらいくけど)、人一倍幸せを感じれる。ありがたく感じれるのは、ある意味虐待を受けるっていう特殊な経験をしたからかもしれない。そう思うと、辛い経験はすべてがマイナスになるわけでもないのかもしれません。虐待されて辛かったから、絶対子どもに同じ思いをさせないためにどうするか。っていうのを深く考えるきっかけにもなりました。

 

人生って辛いこともあるけど、すべてがマイナスなわけでもないんですよね。結局はそれをプラスに転じるか、マイナスに転じるかは自分次第なんだと思います。人生っていろいろだわ。ではこの記事はこの辺で終わります。