障害者雇用の現状が変わった?障害を個性として活かす「欠損バー」がすばらしい



シンママナースの マリアンナ です。

 

 



障害者女子が働く新感覚のガールズバー「欠損バー」が素晴らしい

 

最近ね、日本もやっとこうなったかー!って思う記事を見たんですよ。

障害者の女性が働くガールズバー、「欠損バー」の記事。

 

動画:ゴールデン街の「欠損女子」バー人気、障害を「隠す」から「見せる」に

 

このバーで働いている女性 琴音(Kotone)さん(24才)は、右手がなく義手をつけて働かれているんだって。

確かに手はない。だけどどう見たって普通にかわいい女の子。お客さんが絶えないのもわかります。

 

今までの時代なら、若い女性が身体障害を負ってしまった場合、多くは外に出ることをためらったり、または表舞台で働くような社会で働かない(社会があまり進んで雇用しない)ことがおおかった。ひと昔前、ガールズバーとか、ホステスとかの女性がお酒をつぐようなお店って、イメージ的に障害者のひとが働く場所じゃなかったですから。

 

だけど、そういった過去の風習を打破して、今まで隠されがちだった「障害」を逆手にとって、「障害のある女性が接客をする」をテーマにしたバーができたんです。おまけに繁盛している。

 

これって、本当にすごいことだと思いませんか?本当に素晴らしい、この店つくったひと、まじ尊敬します。

 

これまで日本社会において障害者の立場は、

昔から障害者差別はダメだ、とか、

バリアフリーなんたら、とかきれいごと言われながら、

 

障害者のひとが、人前に立つような仕事ってしてるの、見たことなかった。ほとんどといっていいほど。

障害者って言っても、身体障害者の方等は、身体に不自由があっても知能はほとんど障害がないことも多いんです。特殊な疾患もそう。

背が伸びない疾患の小人症や先天性疾患のダウン症なんかもそうですね。彼らは知的障害がないひともいて、普通に働けるんですよ。例えばコンビニでも、スーパーのレジでも、受付でも。

 

だけど、例えばコンビニとか、スーパーのレジとかで、そういった身体障害者のひとが働いているところを、日本でみたことありますか?

 

ないですよね。

 

人前に出る仕事につかれる障害者のかたって、ほんと、圧倒的に少ないです。

 

接客を重点とするようなバーなんて、もってのほかだったんじゃないでしょうか。

 

日本社会では障害者差別はダメだ、と豪語しつつ、だけど働く環境とかはしっかり「区別」されていたんです。

知能は普通で、人前に出るような仕事ができる身体障害者のひとでも、企業は積極的にそういった身体障碍者のひとを「人前に出る」仕事に雇用することはめったとありません。

 

人から見えない場所で雇用しているのはよく見かけますが。

やはり、イメージ的なものを意識しているんでしょうか。

 

障害者のひとはたくさんいるはずなのに、働く障害者を見かけない日本の社会。

障害者がなんだか隠されたような存在になっているような気がしてならない気持ちでした。

 

日本は他国と比べて、障害者福祉が遅れているとも言われてたりします。

本当の意味でのバリアフリーなんて、してるように見せかけて、できてないんじゃないでしょうか。

 

でもそんな中で、あえて身体障害をテーマにしたバーができたんです。

今まで隠されがちだった「障害」を、あえて前に出してビジネスで勝負する。

おまけに結構儲かってる。

 

それってすごい素晴らしい。

これまでの隠された障害者の方の立場を、一転させてくれたお店だと感じました。

 

お客さんも楽しみ、彼女たちに働く場所がある。そして、ビジネスが成り立つ。うん、素晴らしい。

 

そして障害を持つひとたちのポテンシャルを、すっごく感じる。彼らにはまだまだたくさん社会でのニーズがあります。それがもっと実現できるような気がして、すごく感動した記事でした。

 

 



障害を隠す時代は終わった。自分の何かが足りない個性を活かして生きる時代

 

筆談ホステスって知ってますか?

耳が聞こえないけど、高級クラブのホステスとしてとても売れっ子だった斉藤 里恵さん。

 

彼女は耳が聞こえませんが、とても美しい方で、筆談で上手にお客さんとコミュニケーションをとります。

字がとても上手で、一時は銀座の高級クラブでナンバーワンにもなられたそうです。

 

彼女は自分のないもの(聞こえない耳)をあえて前に出して、それに代わる才能を活かし(綺麗な字と筆談)、「耳の聞こえない綺麗なホステス」という、オンリーワンな個性を活かして頂点に上り詰めました。

 

 

障害を障害として終わらせるのではなく、個性として活かすことで、彼女は素晴らしいホステスになれたんだと思います。

そして今では政治活動などにも精を出されているとのこと。すごい才能があったんですね。

 

彼女はホステスになる前、障害者用ハローワークで仕事を探そうと思っていたそう。もしそのときにホステスではない仕事についていたら、今の彼女の生活はなかったかもしれません。

 

彼女がここまで社会的に成長できたのは、彼女の持つ能力はもちろんですが、彼女が社会に露出するきっかけを作った「彼女を雇用した銀座のクラブ」の存在が大きかったんじゃないかって思います。

 

当時、障害者のかたが高級クラブで接客するなんて、ありえなかったシナリオだったんです。

でもそれまでの常識を超えて、聴覚障害のある斎藤さんを雇用した「クラブ」。その場所が彼女の聴覚障害を「個性」に変えるきっかけになったんですね。

障害を個性として受け入れ、働く場所を提供する社会環境。これがもっと実現していけばいいんだけど。

 



なぜ日本は障害者を隠すのか。国民性から見る「隠された障害者」

 

最近話題になり、24時間マラソンでランナーになった「ブルゾンちえみ」さん。

そのブルゾンちえみさんが自身のネタで使用しているオースティン・マホーンの楽曲「Dirty Work」のPVでは、小人症のひとが出演していますよね。日本では小人症の方が出演されるPVとかドラマってめったと見ないですが。

 

他にも「ハリーポッター」「チョコレートドーナツ」などの海外映画には、障害や疾患を持った方が俳優として出演している映画がたくさんあります。

日本ではあまり見るからに疾患があったり、障害があるひとがテレビに出たり、人前にでる仕事につくことはありません。

 

だけど、海外ではPVとか映画とか当たり前にでるんですね。こういうシーンをみると、日本ってまだまだ障害者福祉がすすんでいないんだな、って思ったりする。

最近は障害があるyoutuberの方が話題にもなってきてるので、ネットの普及が障害者のかたの社会進出を促してる感がある。先天性多発性関節拘縮症のカミサマとか、わたし結構見てますよ。動画の流れ、トークも健常者と変わらないスキルがあります。

 

「障害者系YouTuber」まとめ

 

 

 

日本って、進んでいる国と比べて障害者福祉が10年くらい遅れているのだそう。

そのなかでも、特に国民性だなーと思うのが、過剰な「過保護」状態であることだと思います。

 

恐らく日本の法律の基盤である「憲法」に、個人の人権や尊重が記され、それをベースに法律や制度がつくられているので、障害者のひとは福祉を受けれて、極端な言い方ですけど、状況によっては自立していなくてもずっと福祉で生きていくことが出来るような仕組みです。

生活保護も一緒ですね。条件が揃うと永久的に受給できちゃう。

 

だけど、保護に重点を置きすぎて、自立にフォーカスした支援は弱い。

人は目標をもって自立し、自分らしく活動するからこそ人生がより充実する。筆談ホステスの斎藤さんは良い例だと思う。youtuberのカミサマも、動画再生回数が多く、広告料を考えると結構な収入になっていると思います。つまり、彼らは国の法律では保護される立場にあっても、実はその障害を活かして、自立することができてるんですよ。

 

って思うと日本の法律って、過保護だと思いません?

 

もっと個別性にあった法律ができたらいいな、って思うし、

「保護」視点をもっと「自立」視点へシフトしてほしい。

 

その人を本当に尊重するなら、その人に足りない部分だけを補って、あとは普通のひとと同じように接するべき。彼らの才能をもっと生かせる社会があるといいなって思いますね。

障害は何もできないんじゃなくて、一部欠損する部分があるだけだから、多くはそこを補うことで普通のひとと同じように生活できるんです。っていうか、普通のひとと同じように生活できる世の中でないとおかしいんですけどね。

 

乙武洋匡さんとか、すごいですよね。

彼は確かに四肢がないけど、頭が良いし、教師という仕事にもついて、おまけにベストセラーの本まで出版している。普通に出世してる。おまけにたくさん彼女がいたって、すごくモテてたんでしょうね。

 

働けない、じゃなくて、働く環境をともに考えたり、提供したり。それこそ本人の能力を尊重したバリアフリー。

「欠損バー」ってある意味、今の日本に一番必要なバリアフリーのように思います。

 



わたしが「かわいそうだね」と言われて傷ついた日。果たして障害者はかわいそうなのか?

 

なんか、障害者のひとをみて「かわいそう」とかいう目で、見る必要はないなって思うんです。

っていうか、実は「かわいそう」とかいうセリフや同情って、ときにすごく相手に失礼なことばだったりするんですよ。

 

わたしが子どものとき、母子家庭で貧乏だったわたしのことを「マリアンナちゃん、かわいそうだね」って言われたことがあったんです。たぶん貧乏だし、家族も少ないし、寂しいよね、かわいそう、みたいな意味だったと思うんだけど。

 

いや、でも母子家庭なりに、貧乏なりに幸せだと思う瞬間はたくさんあって、

むしろ家族が少ないから、一人しかいないお母さんと過ごす時間が幼少期はすごく貴重で幸せだったり、

時々お母さんが無理して買ってくれるおもちゃとか超嬉しくて感動とかしてたんだけど、

自分は幸せだと思って生きてるのに、その私の思いもしらないひとが突然

「あなたってかわいそうなひとだよね」

って言われたら、

 

え?わたしって世の中からみてかわいそうな存在だったの!?

って逆にびっくりするし、すっごいみじめじゃん!みたいな気持ちになったことを覚えてる。

障害者として同情される話とは少し違うけど、変えようのない自分の環境を同情されると、なんだかすごくみじめになるんですよね。

 

置き換えて考えてもみてください。

世界一金持ちのひとが家で食事中のあなたの横にきて、

「え!毎日そんな残飯食ってるの?そんなウンコみたいなもの食べるなんてありえない。かわいそう。大変だね、そんなゴミみたいなものたべて。普通そんなの食べないのに」

って言われたとしたら。

 

え!わたしこれで満足してるんだけど!っていうか今日わたしの大好きなカレーでわたしなんなら幸せなんだけど!

っていうかわたしってウンコ食べてたの!?

って思いたくなりませんか?

 

その人が何も悪い事してないのに、毎日が辛いとか悲しいって出来事ばかり起こっているなら、同情してもいいのかもしれないけど、

そのひとが幸せだと感じているのに、自分の価値観やものさしだけで、相手を「かわいそうなひと」としてみるのは、ときにとても失礼なことだったりするんです。

 

本人がかわいそうかそうでないかは、本人が決めることですから。

 

 

「貧しいひとに出会ったら、魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えなさい」

っていう言葉を聞いたことがあります。

 

本来持っているはずの最低限のお金がない人がいたら、食べるものじゃなく、まず食べ物を得る方法を教えたら、一生誰に頼ることなく生きていける。

 

手や足がないから、障害者給付金をあげましょう。とかじゃなくて、

じゃあ手や足を失った状態で、どうやって自立して生きていけるのか。

誰もが自立して生きていける環境を提供する必要がある。

それが日本の社会に足りてないことのように思います。

 



「隠された障害者」から「光を浴びる障害者」へシフトするために必ず必要な社会運動

 

結局、わたしが言いたいのはこれです。

障害者のひとは、もっと社会で輝く可能性をたくさんもっているのに、社会にその機会や場所が少ない。

だから、社会がまず、障害者のかたへ働く場所を提供することが大事なんだと思います。

障害者の雇用の促進です。今以上に、もっと障害者の方々の可能性を活かせる分野ってありそうな気がします。

 

筆談ホステスも、障害者系youtuberもそう。オースティンマホーンのPVに出てくる小人症のひともそう。乙武洋匡さんもそう。

彼らの障害さえ個性として魅力的に見せる「なにか」がまだたくさんあると思うんですね。

 

じゃあそれってなんなの?って言われたら、すぐわからないけど。

少なからず「欠損バー」みたいなアイディアのお店が、もっと普及していってくれるといいなぁ。