看護学校退学、でも看護師を諦めきれない時。失敗したからまたチャレンジするのが不安な時。



シンママナースの マリアンナ です。

看護学校の学生は卒業までに、だいたいクラスの10%位が退学なり留年なりでリタイアしてしまうことがあります。わたしが看護学生時代、退学しざるおえない状況になった好成績のA君を見て、教員の評価が間違っているところもあることを感じ、また看護学校を退学したからってそのひとが看護師になれない訳じゃないことを痛感しました。何かに失敗して誰かに責められても、その言葉をうのみにしなくても良いんです。諦めきれないなら、次は失敗しないようにどうしたらよいかを考える必要があります。



看護学校を退学。これからどうして良いかわからないとき

わたしが看護学生のとき、だいたいクラスの10%以上は退学なり留年なりのハンデを負わされていました。あとから知る事実ですが、だいたいどこの看護学校でも、入学したときから10%前後の学生が、なんらかの理由で看護学校を退学なり、留年なりで卒業できないでいるんですね。多くは厳しい看護実習を乗り越えることができなくてリタイアする子が大半でした。わたしは看護学校を3年で卒業することができました。でも本来うれしくて、心から感動できるはずの「看護学校卒業」という人生イベントを心から喜べなかったのは、ある友人の「看護学校退学」というイベントをきっかけがあってからでした。

わたしの看護学校時代の友人Aという男の子は、誰が見ても性格の良い子で優しい子でした。わたし自身も温厚で優しいその子が大好きでしたし、大人にってからこれだけ優しい子を見るのも久しぶりだなって思えるくらい純粋で優しい子でした。よく仲が良いメンバー同士で飲みに行ってましたしね。そのA君は看護学校の3回生のとき、実習メンバーが不運にもものすごく気のキツい、意地悪なメンバーにあたってしまったんです。それから、彼は実習中ひどいイジメに合い最終的に退学を余儀なくされることとなりました。彼は決して看護に関して能力がない人ではなかったし、実習指導者からの評価も高い看護学生でしたが、実習メンバーから彼の根も葉もない噂を仕込まれた看護学校教員の評価が非常に悪く、結果として退学を余儀なくされ自主退学させざる終えない結果となりました。

わたしにとって、看護師になることを目標にした同志を失うという大きなショックもあったし、なにより実習メンバーがそういった「気のきついメンバー」にあたるまで、好成績を出し続けていた彼が、突然メンバーが変わったことで看護学校を退学しざるおえない状況に追い込まれていたことに、正直納得ができないでいました。

A君は本当に看護学校を卒業できないようなひとだったのか?

A君を取りまいた実習メンバーの性格や、それまでのA君の素行と成績と人格を鑑みても、学業を頑張っていたA君が退学しざるおえなかった。っていうか、わたしはA君がイジメをきっかけに看護学校を退学した事実を見て、「なんでA君が学校を退学しざるおえなかったんだろう。どうして彼はあれだけひどい仕打ちをうけないといけなかったんだろう」っていう考えが今でも残っていますが。A君はよく教員に「あなたはアセスメントができてない」「看護師に向いていない」とかめちゃくちゃひどいことを言われていました。でも看護学校を卒業して看護師として実践を積んでいく中で、いろいろ経験して看護学生時代を振り返って思うのは、A君ができない人だったから、看護学校を退学したわけじゃないっていうことです。



看護学校をリタイアするのは決して「できない人間だから」じゃない

看護学生のときは、まだ自分自身も看護っていうものが確立していないし、経験値もないのでどんなアセスメントができていて、どんなアセスメントならできていないとかいう評価のものさしみたいなのがなかったんですよ。でも看護師になって、看護を経験して思い返すんですが、一生懸命看護学校で頑張って退学しざるおえなくなった子って、決して看護ができない人だから退学に追い込まれたわけじゃないってことです。

看護学校を卒業するかできないかは、結構看護実習で左右されるところがあります。看護実習の評価って、ペーパーテストみたいに正解不正解があって点数で評価できるものではなく、ほんと人から(教員や指導者、実習メンバーとか)の評価で決まるんですよ。その実習の内容で決まるというよりは、その実習を通して評価者(教員や指導者)からどのように思われたか。それが合格するかしないかの基準になるんです。まぁそれもおかしな世界ですよね。人なんて結局思い込みとか噂に惑わされる生き物ですから(特に女性は)。数字で表せるものでない限り人が人の出来具合を完璧に客観的な評価できないと思う。絶対主観が入ってしまうんです。だから、看護実習を評価するひとたちから嫌われたり、目の敵にされてしまうとどんなにできる子でも、できない人っていうレッテルをはられてしまうことになるんです。

というのもA君は実習指導者からの評価はとてもよかったんです。決して看護展開ができていない人でもなかったし、倫理的配慮がないような学生でもなかった。ただA君の実習メンバーが、絵に描いたようないじめっ子気質の女の子たちで、あることないことの根も葉もないうわさや悪口をいつも言われるようになっていました。それに教員が加わるようになり(というか実習メンバーが教員にあることないことを言いに行くようになった)最終的にA君の教員からの評価が悪くなってしまったんです。っていうか先生もなんでしょうもない学生の噂話に加担しているんだって思いますけど。結局女性とは群れる生き物なんでしょうかね。

この一連があって、看護学校をリタイアするひとは決して看護ができないひとじゃない。看護学校をリタイアするひとは看護師が向いていないわけじゃない、って思うようになりました。看護師が向いているかいないかは他人が決めるものじゃなく、自分が決めることなんですから。看護をしていて楽しいと思ったり、真剣になれたり、看護師になりたいと自分が思って行動できている地点で、そのひとは看護師に向いているんだと思うんです。看護師が向いていない、しんどいと思うひとは免許とっても看護師やめますからね。

わたしが知っている中でも、休学したり退学したりで看護学校をリタイアしてから再度奮起して、看護学校に入り直して卒業し、無事看護師になったひとが結構います。助産師でもいましたね、助産師学校をリタイア後再度入学して助産師免許をとったひと。でも今そのひとたちは立派に教育担当とかいろいろやってますよ。リタイアから立ち上がった彼らの当時の教員に聞いてみたいものです。彼らを看護師が向いていないと判断して、落第させた理由は何なのか?って。それが「この子は看護師向いていないから」っていう理由なら、その評価が間違っていた証拠ですよね。



「世渡り上手」は生きていく知恵なのかもしれない

「世渡り上手」なんていう言葉があります。あれって生きていく上ですごく重要な言葉なのかもしれません。世渡り上手っていろんな場面で使われますが、わたしが看護学生時代、この子ってほんと世渡り上手だなーっておもう子が結構いましたね。

「これわたしできないんです、教えてください」とか上手にひとに甘えているようで、めんどくさいことは人にやらせていたり、自分が考えるのがめんどくさくなれば教員や指導者からうまく答えを引き出したり。家で予習復習なんか全然やっていないのに、やっているように見せるもがうまい。適度に遊んでストレス解消している。そういう子たちこそ、本来であれば看護実習とか落第になるはずなんですけど、ならない。上手なんですよ、人からの評価をコントロールするのが。

頑張っていたのに看護学校を退学しざるおえなかった人って、良くも悪くも人をコントロールするのが苦手なタイプだったんじゃないかなーとか思います(もちろん例外はありますが)。ようは人間関係なんですけどね。いい人すぎても、まじめすぎても、おとなしすぎてもダメなんです。適度なコミュニケーション能力で、実習メンバーとうまくやり、教員や指導者から「できない子」のレッテルを貼らせない。

A君は本当に良い人でしたが、だからこそ彼は女性の「いじわる」を見抜くことも対策することもできなかったんだと思います。彼の中に「人にいじわるをする」という概念がないから、自分がいじわるされているっていう感覚がなかったのかもしれません。どうしてもわたし目をつけられるタイプなんですっていう人は、社会心理学でいじめにあいやすい人とかあいにくい人とかについての研究をしていたりするので、その手の本を1冊くらい読んでみても良いかもしれないですね。



看護学校を退学になっても「自分はできない人」とおもっちゃいけない。

看護学校を退学になっても、「自分はできない人」とおもっちゃいけない。看護学校だけに問わず、仕事でも家庭でも何かに失敗したときに、「自分はできない人間なんだ」っておもったらダメです。ときに社会で「お前はできない人間なんだよ!」なんてひどい言葉をかけられ続けると気も滅入って「自分はできない人間なんだ」って思ってしまいがちですが。そもそも誰かにできたようなたいがいのことって、人間努力すればできる。時間がかかるかかからないかの違いくらいじゃないでしょうか。もしその失敗した分野で良い成績をあげられなくても、違う分野ではすごい功績を残すひとはたくさんいます。発明家のトーマスエジソンだって、発明家になる前の学生時代は劣等生でした。そのひとができるかできないかなんて、他人が判断する権利もなければ、それをうのみにする必要はありません。

人間って「自分はできない」と思ったらチャレンジすらしなくなる。そうなると本当はできたことなのに、チャレンジもしないから本当にできなくなってしまう。そして年をとってからじぶんがチャレンジしなかったことを悔やみます。

「お前はできない」という言葉は、ひとを本当にできないようにさせる毒薬のようなものです。

だからそれを本気でそのまま受け止めたらだめなんです。人間は完璧な判断ができない生き物です。誰かに「お前はできないやつだ」と言われてもその判断が正しいなんて、誰が評価できますか?その本人が何かをできるかできないかは、その本人の気持ち次第でかわるものなんですから。

ただ、看護実習なり何なりをクリアできなかったのには理由はあるんだと思います。そのできなかった正しい原因を追及して、また次にいかす必要はあります。決して何かに失敗したからといって、そのひとが「できない人間」なわけじゃないんです。失敗して初めて修正点に気づく。自分特有の「治さないといけないところ」。それが人間関係の持ち方であったり、ひととの付き合い方、距離の置き方であったり、自分の考え方だったりもする。重要なことは、失敗してもすぐ何が原因だったか振り返って、その失敗をもうおこさないように対策して、次にいかすことが最善だと思います。

看護学校をリタイアしても、再度チャレンジして看護師になったひともいたし、違う分野に興味をもって、違う学校へいった人もいました。誰かにできたということは、自分にもできるんです。つまり、看護学校を退学しても、もう看護師になれないわけじゃない。なりたいと思う気持ちさえあれば、チャレンジできるし、チャレンジできれば、実現できるようになる。

できるって思わないと、できるわけがない。1回失敗しても、それは勉強料だったと思えばいいんです。わたし人生失敗だらけですよ。あのときこうしておけばよかったー、なんであんな失敗したんだろう、なんて思うことはしょっちゅうです。職場で意地悪されてめっちゃ落ち込んだこともあります。過去にいやなことが重なってうつ状態になったこともあります。その時は落ち込んでいますが、今は良い勉強ができたと思って開き直れています。

 

人を落ち込ませる言葉の多くは悪意があります。

歴史の古いユダヤ人の格言で「ひとの自信を失わせることは、人を殺すことより罪が重い」とも言われています。

だから自信をなくすようなことを言われても本気で受け止めなくてもいいんです。

あれからA君は看護学校を退学しうつになって、体調も崩していました。うつになった以上、あまり頻回に連絡したりするのはよくないかなと思って連絡していません。でもA君が看護学校を退学するとき、「まだ看護師になることをあきらめきれない」と言っていたことをすごく覚えています。鬱状態って知ってしまった以上、励ますこともできないけど彼がまた奮起して何かにチャレンジしてくれることを願っています。

同時に、A君みたいに看護学校をリタイアして後悔しているひとや、仕事や結婚で失敗しているひとも、ぜひ次のステップを踏み出してくれるきっかけになったらいいなと思います。

 

長くなってしまいました。ではこの辺で。