シンママナースの マリアンナ です。
今日の朝、北海道釧路市の海岸に女性の遺体が打ち上げられ、行方不明になっていた中国人女性危秋潔さん(26)ではないか、というニュースがありました。
ニュースのコメント欄からは、そのエピソードから恐らく自殺であろうことが予測され。
確かに服も来たままで、それまで一人で旅をしたり、遺書があったりするエピソードから、その可能性は高いのかもしれない。
何があったのかはわからないけど、いろんな思いで過ごされていたんだろうと思います。ご冥福をお祈りいたします。
そしてわたし。今日は泣きました。なんだか心が晴れない。仕事に行きたくないんです。
いやほんとに。仕事に行くくらいなら死んだほうがマシだって、本当に思っちゃう。鬱かなって思って、ネットで鬱チェックしたら軽度鬱だった。えー・・。
こんな弱い自分がいやだし、誰かに相談なんかしても「母親なのに」「社会人なんだから」「大人なんだから」なんて言葉が飛んできそうで、とてもじゃないけど相談なんてできななかった。
子どもを愛しているのに、家族は大切なのに。
食べてはいけてる。仕事はなんとかありつけている。
別に不自由ない生活なはずなのに、異様な絶望感を感じる。
一人になりたいって思う。消えてなくなりたいとさえ思ってしまう自分がいます。
でもどうしてわたし、こんなに病んでるんだろう。
そう思ってしまうわたしの気持ちを整理するために、ブログに気持ちを表現することにしました。
もう精神的な限界なのに、まだ頑張り続けないといけない自分がいる
働くママにとって、夏休みはまさしく地獄。
そしてわたしの場合、シングルマザーだからなおさら地獄。
なんてたって、子どもをどこかレジャーへ連れていくにしても、すべてわたしがしないといけないんです。運転も、子どもの付き添いも、なにもかも。
一般的な家庭なら、パパが全力で子どもと遊んで、パパが疲れたらママが「帰りはわたしが運転するわねー」なんて行ったりして、子どものレジャーだって、協力しあえたりしますよね。
だけどわたしはシングルマザー。全力で子どもと遊んでくれるパパなんていないから、もうわたしがやるしかない。
激しい山登り、海、川遊び。子どもから目を離せないから、自分ももちろん一緒になって遊びますよ。
遊び終わったあとは、もう過労死するんじゃないかってくらい疲れる。疲れ切った後は車でトラックの運ちゃんのように長距離運転。
わたしの本職は何なのか。
車で爆睡していた子どもは、家につくころ体力が復活している。わたしはもう過労死レベルで(白目)。子どもがはしゃぐ声のなか、死んだように眠るわたし。
働くママにとって、夏休みはお金も体力も休みもぶっ飛ぶ、正直怖いシーズンだとわたしは思っています・・。
え?なになに?
子どもがかわいくないのかって?そんな手厳しい声が聞こえてきそう。
いやいや、もちろん子どもはかわいいんですよ。
かわいいから、たまにの長期休みくらい、たくさん遊ばせてあげたいんです。
「母子家庭だから、遠くへ遊びにいくなんて無理よ!」なんて言いたくない。母子家庭で育ったわたしが言われてすごく傷ついた言葉。
だからこそ、ちょっと無理してでもいろんな体験をさせてあげよう!って張り切るんです。
自分がやすみたくても、疲れてても、子どもが喜んでくれるのは今だけだから。って。
でもね、
やっぱり親も体力、経済力、精神力に限界があるんだなって今日は感じました。
夏休みが終わって、どっと疲れが出る。疲れがでてても、仕事は容赦なく始まる。休日は家族サービスだから、自分の疲れをいやす時間なんてない。お金は夏休みでだいぶ使い込んだので、自分の娯楽に使う余裕はない、ワーママ30代。
自分の人生って何なんだろう。
誰のために、なんのために生きているんだろう。
っていうか、何のために生まれたんだろう。
蓄積してきた小さなストレスが積もり積もって、満タンになった水風船のよう。
重くて身動きがとれなくて、ちょっとした衝撃で爆発する。自殺とか、よからぬ方向へいってしまいそうな、そんな精神状態。
母親・社会人でなければならないわたしと、自分らしく生きたいわたしの葛藤
世間ではよく
「母親のくせに」「自分が生んだんだろう」「大人でしょ」「社会人なんだから」
みたいなことばを聞きます。
なにかしらの事件があると、ネットニュースのコメント欄なんて、そういった批判的な言葉であふれかえっている。
子どもを愛しているからというのはもちろんだけど、
そういったことばを聞くたび、
「自分は親として批判されるような生き方をしてはいけない」
みたいなプレッシャーが潜在的に強くなるんですよ。
なんか、わたしが思う世間のイメージって
- 息抜きしている母親=悪
- 弱音を吐く社会人や大人=だめ人間
みたいな感じなのかなと思うんです。
だからそうなってはいけない、って潜在的に思ってて、
どこかでそうならないように、母親、仕事も頑張ろう。
そういう思いもあって、良い母親、がんばる社会人っていう自分を保っていたのかもしれない。
だから、
「息抜きしたい」とか、「ひとりでゆっくり過ごしたい」とか、自分を癒すことはなんとなく「してはいけない」「それより家族サービスと仕事だ」みたいなプレッシャーがあるのかもしれない。
でも、本当はやっぱり自分がしたいことをしたい自分がいるんですよね。母親でも社会人でも。人間なんですね。
ゆっくり美容院やショッピングだってしてみたいし、子どもがいきたいところじゃなくて、わたしがいってみたかった旅行先にだって本当は行ってみたい。
連休を一度でいいから、自分の時間に使ってみたい。
自分が学びたかったこととか、行きたかったけど諦めた学校とか、留学とか・・。
子どもを産んでから10数年、わたしはいろんなことに興味を持つ「自分らしさ」を捨てて、よき母親でいなかればならない。
そんなプレッシャーのなか、生きてました。
自分より子ども、
余暇より仕事。
自分らしい生活を犠牲にして、自分以外のなにかにすべてを費やす毎日。
ただでさえもフルタイムの仕事は忙しい。
そんななか、子育てをするってとても大変なこと。
その上にもっと「良い母親でいなきゃ」「仕事がんばらなきゃ」と自分にはっぱをかけて、生きてきたけど。
今日わたしが本気で死にたいなーと思ったとき、
そういった今までの働く母親としての生き方が、間違っていたんだなって思いました。
何事も結局バランス。頑張りすぎる人は必ず本末転倒を起こす
「死にたい」思いって、自分が気づかない心のサインなんだと思います。
なにか自分のこころに負荷をかける、生活習慣をかえないといけないサイン。
暴飲暴食してたら、胃炎とか、腸炎とか起こすじゃないですか。
からだとか心って案外正直なもので、なにか自分の生活習慣をかえないといけないような環境だと、なにかしらサインをだすんですよね。
その人に合ってない、そのまま続けてはいけない生活に、黄色信号を出してくれる。「そのまま続けたら、やべーよ」って。
神様が人間に備えてくれた、生きていくための防御反応なんだと思います。
だけど現代は、からだやこころがサインを出していても、生きていくためになにかしら「頑張らないと」いけない。
頑張りつづけないと評価されない。
仕事も子育ても、まるでより自己犠牲を多くして成果だしたやつほど、えらい、みたいな。
なにかを自己犠牲にするくらい頑張らないと、なかなか評価してもらえないような世の中のように感じるとき、ないですか?
世の中は、誰より頑張り、自己犠牲を払い、成果を出したひとを「100点」のように評価してくれます。そんな気がするときある。
うちの会社のために頑張りなさい。
子どものために頑張りなさい。
親の介護のためにがんばりなさい。
あなたが親なんだから、大人なんだから、育ててもらったんだから。
まじめなひと、思考が「がんばらないといけない」みたいなひとって、周囲が求める100点の要求にどうにかして答えようとする。
睡眠時間を削ってでも、休日を使ってでも、たくさんお金をつぎ込んででも、頑張ろうとする。
頑張ることはいい事なんです。なんだって、頑張るってことは素晴らしいこと。
だけど問題は、「がんばりすぎる」ことなんだと思います。
心身がお手上げギブアップの「サイン」を出してもなお、頑張り続けてなにかが壊れた結果待っているのは、多くが悲しい結末。
病気、鬱、自殺、依存症・・。
もし結果的に頑張りすぎて、結果的に最悪の結末になるなら、それは良い「頑張り」ではない。
残念だけど、頑張るべきでないところで頑張った結果かもしれない。
もはや、バランスを崩した頑張りで、「頑張る」ことの許容範囲を超えているんだと思う。
正しい「頑張る」は、自分に合った頑張りができることではないでしょうか。
正しい「頑張る」を実現するには、自分が頑張れるところまで「頑張る」、コントロール能力が必要なのかもしれないですね。
みんなが100点をとれ!といっても、
自分がどうしてもその分野が苦手で、60点が限界なら、
周りに何を言われても60点で居続ける勇気も、必要なのかもしれない。
昔はがんばったひとが評価された。
けど現代は、ブラック企業やワーママ、共働き世帯の増加とか、子育て世帯の負担も多い時代。
いつ心身ともにつぶれてしまうかわからないくらい、世間が個人に100%を求める時代です。
いわれるがまま、求められるがまま、頑張り続けたら、結果的に大変なことになることもあるかもしれない。
無理をしてがんばるひとより、これからは自分をコントロールできるひとが、生き残れる時代なのかもしれないね。
「頑張る人=えらい」的な時代は終わった。これからは自分をコントロールできるやつが勝つ
わたしは看護師だけど、いつも仕事してて感じることがあるんです。
それは仕事のなかで、「頑張ってるやつが一番損してる」こと。
看護師って仕事を頑張って早く終わらせて、他のひとの手伝いしてる子がいたり。
上級資格をとったりしても、結局さほど収入はあがらないけど、仕事や責任は増えたり。
みたいな、なんか頑張ってるやつほど損してる感が半端ないんですよ。
営業とかみたいに成績で賞与がかわったりするわけじゃないし、頑張ってるやつも、頑張ってないやつも、結局給料も賞与も同じ値段。
なんか、誰かのために頑張りすぎることって、結果的に損なことって多い気もする。
どうせ結果が同じなら、100点満点頑張らなくても、60点のパワーで良い気もする。
なんなら自分のなにかを犠牲にして、無理してまで100点とって誰かに評価されるより、
自分らしく幸せを感じて生きながら、60点をずっと維持し続ける方がよっぽど人間的でいいかもしれない。
わたしは良き母でありたい。
社会人としてちゃんとお金を稼いで、自分で生活をしたい。
だけど、そのわたしが「こうでありたい」というところから、極端に逸脱していなければ、良い気もしてきた。
別に完璧じゃなくても、自分らしく生きながら、60点で生きてる方がいいかもしれない。
「めちゃくちゃ良き母」じゃなかったけど、「まぁまぁ頑張ってくれた母」でもよいかもしれない。
「めっちゃできる社会人」ではなくても、「地道に頑張り続けた社会人」も魅力的かもしれない。
自分ができる範囲のことをする。頑張ろうとする自分にブレーキをかけることも、自己管理。
つまりセルフコントロールする能力も大事。
もし自分ができる範囲を超えることを要求するひとがいれば、そのひととは距離をおいたほうがいいかもしれない。
たとえそれが会社なら、その会社は退職して、自分のライフスタイルに合う職場を探すのも手だし。
「母親なんだから、これくらいしないと!」っていう「こんなママじゃないと」プレッシャーをかけてくるやつがいれば、そのひとと距離を置けばいい。
母親も人間だし、ワーママならなおさら、母親を完璧にこなすことってできない。
自分の限界を越えない「頑張り」を実現できるライフスタイル。
なんか今のわたしには、そういうのが必要に感じてきました。
働く母親「ワーママ」として、仕事と育児をどうバランスよく保つか
わたしは自分らしさを後回しにし続けて、子育てや仕事を優先してきた生活を10年以上、送ってきました。
ワーママっていう、たぶんこれからもその生活は変わらないけど、子育て、仕事の負担を少しずつ減らして、「自分の時間」を自分に作ってあげることが今の大事なのかもしれないって思う。母親だとか、大人だ社会人だなんだっていっても、その前に人間だから、結局自分がしたいことをしていない日々が続くと、どこかでけつまづいてしまう。それが今日だったのかもしれん。
結局、頑張りすぎて精神的に追い込まれたり、体を壊したりしたら本末転倒。なにもかも意味がないんですよね。
ストレスとかプレッシャーって、ほんと水風船だと思います。
適度に入ってるのは張りや弾力がでていいんだけど、パンパンに詰め込みすぎると、ちょっとした衝撃で爆発するかわからない。適度に、定期的に水風船のなかの水を抜いてあげるか、一気に水がはいらないように調整しないといけないんだと、反省。
自分らしく、自分のすきなことしてるひとって輝いてるんだよね、なんか。自分のすきなことばっかりして、子育てを放棄したり、仕事をおろそかにするのはよくないけど、たとえば月1回とか、何曜日は息抜きの日。みたいなのをつくってもいいかもしれない。水風船の水を抜く日。
今まで「子育てが終わってから自分のしたいことをしよう!それまでは子育てを頑張ろう!」って子育てに意気込んでいたけど、なんか適度に息抜きして、完璧じゃなくてもいいから、子育てをとりあえずやりきるっていう考えにシフトしていこうって思う。
子育てはもちろんする。だけど、自分のペースを保つ。って感じ。今までマラソンを全力疾走してきた感じだけど、これからはペースを落として、ゆっくりゴールを目指すような。
わたしに欠けていたのは、たぶん自分らしさ。自分以外の子供とか仕事とかを優先して、自分らしさをあとまわしにしてるんだな。だから、わたしの自尊心がゆらいで、充実感が欠けてきて、次第に人生のすべてがいやになっていたのかもしれない。
ひとを上手に愛せるひとは、自分も上手に愛せる。はず。子育てもひと段落してきたし、ちょっと自分を大事にする時間づくりをはじめてみたいと思います。
とりあえず、時間をかけて仕事を減らしたい。そしてわたしの休日DAYを作っていきたいと思います。